
※登場人物は全て仮名です。
「植物って、虫がわくじゃないですか」
私が最初にそう言ったのは、職場の同僚・田中さんに小さなポトスの鉢を見せられた、去年の4月のことだった。
田中さんは困ったような顔をして「土にコバエが来ることはあるけど、対策すれば大丈夫だよ」と返してくれた。
私は「ふーん」と言って自分のデスクに戻り、コンビニで買ったコーヒーゼリーを食べた。
それだけのはずだった。
仕事は営業事務。残業は月40時間。趣味はNetflixと、週末の昼まで寝ること。
部屋には観葉植物どころか、まともな家具すらなかった。ニトリのローテーブルと、3年前から使っているIKEAの棚。それ以外は床にものが散乱しているだけ。
インテリアに興味がないわけじゃない。ただ、「おしゃれな部屋」を作ろうとするたびに、何かが足りない感じがして、結局何もしないまま時間が過ぎていた。
ここで少し話が脱線するが、私には「憧れだけ高くて行動がともなわない」という厄介な性格がある。
スキンケアも、「ちゃんとやろう」と思って化粧水を5本買い、そのまま棚の奥で半分以上残っている。英語も、アプリを3つダウンロードして、全部初日で止まっている。料理も、ル・クルーゼの鍋を買って、今はインテリアになっている。
そういう人間が、植物を買う。
想像しただけで結末が見える。
田中さんのポトスから2週間後。
私は別に理由もなくホームセンターに寄った。シャンプーが切れたのでドラッグストアに行こうとしたのに、なぜか隣のホームセンターに吸い込まれていた。
人生の大きな失敗の大半は「なんとなく」から始まる。
園芸コーナーに足を踏み入れた瞬間、緑の量に圧倒された。天井まで届きそうな大きなパキラ。葉っぱが手のひらほどもあるモンステラ。名前も読めない細長い何か。
そして棚の隅に、小さな鉢がずらりと並んでいた。
値札を見た。480円。
(安い)
その一言が、私の財布のひもを完全に溶かした。
パキラの小鉢を手に取った。幹がぐるぐると編み込まれていて、なんかかわいかった。葉っぱは小さく、つやつやしていた。
「これ、枯れにくいですか?」
近くにいた店員さんに聞いた。
「パキラは丈夫ですよ。水は土が乾いてからあげれば大丈夫です」
「どのくらいで乾きますか?」
「この大きさなら、1〜2週間くらい」
「水やり、2週間に1回でいいんですか」
「ざっくりそんな感じです」
2週間に1回。猫より手がかからない。猫を飼ったことはないけど。
気づいたらレジに並んでいた。
家に帰って、パキラをどこに置くか30分悩んだ。
窓際。でも直射日光は良くないとさっき調べた。デスクの上。でも邪魔かもしれない。棚の上。でも目線より高いと存在感がない。
結局、デスクの左端に置いた。
翌朝、目が覚めてパソコンを開こうとしたとき、視界の端に緑が入った。
(あ)
それだけだった。それだけなのに、なんか、深呼吸した。意識してじゃなく、自然に。胸から空気が抜けた感じ。
その日、いつもより30分早く仕事が終わった。パキラのせいじゃないと思う。たぶん。でも、関係ないとも言い切れなかった。
ここで話が少し脱線するが、私は翌日の昼休みにスマホで「パキラ 育て方」と検索していた。
そこから「ポトス 初心者」「サンスベリア 風水」「ガジュマル かわいい」「観葉植物 デスク おすすめ」と検索が止まらなくなった。昼休みが終わっても検索していた。午後の会議に5分遅刻した。
気づいたら、部屋に植物が7鉢あった。
パキラ(デスク)、ポトス(棚)、サンスベリア(窓際)、ガジュマル(玄関)、ハートカズラ(本棚)、アイビー(洗面台)、そして名前を忘れた何か(トイレ)。
合計金額は計算していない。計算したら負けな気がした。
友人の麻衣が遊びに来たとき、玄関を開けた瞬間に「なんか、空気変わった?」と言った。
「そう?」と私は答えた。でも心の中で「そうでしょ」と思った。
麻衣は部屋を見回して「植物いつから好きだったっけ」と聞いてきた。
「去年の春から」
「なんで急に?」
少し考えた。
「500円だったから」
麻衣は笑った。私も笑った。でも本当のことを言えば、あの朝、視界に緑が入った瞬間に深呼吸したあの感覚が、全部の理由だった。
言葉にすると恥ずかしいから、500円のせいにしておいた。
「植物って虫がわく」と言っていた去年の私へ。
コバエは、受け皿に水をためなければほぼ来ない。土の表面が乾いてから水をやれば、だいたい問題ない。あと、虫よりも「水やりを忘れて枯らす」ほうが圧倒的に多い失敗なので、そっちを心配した方がいい。
それから、「流行りものでしょ」と思ってスクロールしていた私へ。
流行ってる理由は、見た目じゃなかった。あの「空気が変わる感覚」を、みんな共有したかっただけだ。
インスタに写真を載せてハッシュタグをつけたくなる理由も、今ならわかる。「これ、伝えたい」という気持ちが、自然にあふれてくるから。
去年の春、480円のパキラを買った私は正しかった。
ただ、7鉢買うことになるとは、思っていなかった。