
※登場人物は全て仮名です。
毎週木曜日、私はスーパーの魚売り場で戦っていた。
いわしのパックを手に取る。
骨、ある。
あじを手に取る。
骨、ある。
さばを手に取る。
骨、ある。
当たり前だ魚だから。
そして毎週木曜日、私は鶏むね肉売り場に逃げた。
息子が離乳食を始めてから、もう3年近くそれを繰り返していた。
魚は体にいい。DHAがどうとか、青魚がいいとか、保育園の先生にも言われた。
でも骨を取る作業が、どうしても好きになれなかった。
ちなみに青魚は離乳食に使える時期が決まっている。
いわしやさばは、アレルギーのリスクがあるため、離乳食完了期の1歳以降から少量ずつが基本だ。
中期や後期で使う場合は、かかりつけの小児科に相談してから始めるのが安全。
…という大事な話を、私はかなり後から知った。これも誰も教えてくれなかった。
細い骨が指に刺さる。 どこに骨があるかわからない。
「取れた」と思ったら、まだある。 気づいたら20分経っている。
そんな私が「魚が好き」と言える日が来るとは、あの頃思ってもいなかった。
話が少し逸れるけど、夫はこういうとき驚くほど役に立たない。
「骨あるから大変そうだね」と言いながらソファでゴロゴロしている。
共感だけ一人前で、手は一切動かない。
これについては別の機会にたっぷり書きたいと思う。話を戻す。
去年の冬、限界が来た。
いわしを買ってきた。
離乳食に使おうと思って、奮発して買ってきた。
うちの息子は魚が好きで、いわしのおかゆを作るとよく食べる。
だから頑張ろうと思って、木曜日に勇気を出して魚売り場で足を止めた。
家に帰って、骨を取り始めた。
細い骨が指に刺さった。
5分経った。
また刺さった。
10分経った。
息子がぐずり始めた。
15分経った。
夫がリビングでテレビを笑いながら見ていた。
そこで私は言った。
「ねえ、魚ってもっと簡単に使えるやつないの。骨がないやつ。そういうの売ってないの。」
夫は画面から目を離さずに答えた。
「あるじゃん。骨取り魚って、冷凍で売ってるよ。しかも無塩のやつ。」
5秒、沈黙した。
キッチンと、リビングと、テレビの笑い声だけが残った。
「……なんで今まで教えてくれなかったの。」
「言ったことなかったっけ。」
なかった。絶対なかった。
この件についても別の機会に書きたいが、今は続きを優先する。
その夜、息子を寝かしつけてから、私はスマホを開いた。
「骨取り魚 冷凍 無塩」と検索した。
出てきた。
普通に出てきた。
いわし。あじ。さば。
しかも食塩不使用。
インスタで画像検索した。
出てきた。
普通に出てきた。
みんな普通に使っていた。
「#骨取り魚」というハッシュタグに、何千件もの投稿があった。
離乳食に使っている人がいた。
ただ、ここで一つ。
離乳食で青魚を使うときは、月齢と時期に注意が必要だ。
いわしやさばは離乳食完了期、目安として1歳前後から少しずつ試すのが基本とされている。
アレルギーが出やすい食材のひとつなので、初めて使うときは少量から、体調のいい日の朝に、が鉄則。
無塩であることは大きなメリットだけど、塩分ゼロでも月齢より早く与えていいわけじゃない。
私も最初それを混同しかけたので、ここはちゃんと書いておく。
塩分制限のある親御さんのご飯に使っている人がいた。
「時短で最高」とコメントしている人がいた。
私は3年間、何をしていたのか。
思い返せば、魚を前にするたびに諦めていた。
さばの味噌煮が好きなのに「塩分が多いから赤ちゃんには出せない」と諦めた。
いわしの梅煮を作りたかったのに「骨が面倒だから」と諦めた。
あじのなめろうをやってみたかったのに「下処理が無理」と諦めた。
全部、無塩の骨取り冷凍があれば解決していた話だった。
ここで少し脱線するが、スーパーの冷凍コーナーというのは実は情報の宝庫だと思う。
電子レンジで使えるものや、下処理済みの食材が毎年増えている。
私が知らないだけで、便利なものがまだ眠っているかもしれない。
来週あたり、冷凍コーナーを端から端まで歩こうと決めた。
話を戻す。
翌朝、ダメ元でLINEに投げてみた。
「みんな、骨取り魚の無塩冷凍って知ってた?」
送信して30秒、後悔した。
知らないのが私だけだったらどうしよう、と思ったからだ。
既読がついた。
4人。
スタンプが来た。
「知ってる!離乳食にめっちゃ使ってる」
「え、知らなかったの笑」
「もう2年くらい使ってるよ」
「うちはあじとさばを常備してる」
知らなかったのは私だけだった。
スマホを伏せた。
天井を見た。
2年。みんな2年も使っていた。
私はその2年間、毎週木曜日に魚売り場で骨を恐れてむね肉に逃げていた。
でも、おかしいな、と思った。
なぜ誰も教えてくれなかったのか。
これだけ便利なものを、なぜ黙って使っていたのか。
そこに返信が来た。
「そういえば前に話したことあった気がするけど、覚えてなかった?」
覚えていなかった。
そうか、聞いていたのに忘れていたのか。
この件については深く考えないようにしようと思う。
なお、私が骨取りいわしを離乳食に使い始めたのは息子が1歳を過ぎてからだ。
青魚は月齢が早すぎると体への負担になることがある。
何事も、タイミングが大事ということだ。
話を続ける。
気になって計算してみた。
週に1回、魚の骨を取るのに20分かかっていたとする。
3年で156回。
156回 × 20分 = 3120分。
52時間。
私は52時間、魚の骨を取り続けていた。
2日と4時間。
丸2日以上を、骨取りに費やしていた。
その時間があれば何ができたか。
本が読めた。
ドラマが見られた。
昼寝ができた。
夫への説教を60回くらいできた。
ちなみに夫は骨取りをしたことが一度もない。
この非対称な労働分担については、先ほども述べたとおり別の機会に本気で書く予定だ。
かなり書くことがある。ただ今日は魚の話なので続ける。
あの夜から、うちの冷凍庫が変わった。
骨取りいわし、骨取りあじ、骨取りさば。
食塩不使用のものを選んで、3種類常備している。
息子の離乳食には、いわしをほぐしておかゆに混ぜる。
大人のご飯には、さばをごまだれで和えてご飯に乗せる。
時間がない夜は、あじをそのまま煮付けにする。
骨がない。
塩分を気にしなくていい。
下処理が要らない。
木曜日に魚売り場でパックを手に取り、骨を見て棚に戻す必要がない。
なんなら今では、魚売り場を通り過ぎる自分に少し余裕がある。
「骨取り無塩があるから、今日は鶏肉でもいいか」という選択ができる。
知っていると知らないでは、こんなに違う。
SNSで流行っていた理由が、あの夜やっとわかった。
みんなとっくに知っていた。
みんなとっくに楽をしていた。
流行るのは当たり前だった。
私だけが3年間、知らなかった。
あの52時間は戻らない。
でも次の52時間は、もっとうまく使える。
骨取り魚の無塩冷凍で、具体的に何が作れるのかは次の記事でまとめた。
離乳食レシピも、大人向けの時短レシピも、全部書いた。
木曜日に魚売り場で立ち止まる必要が、もうなくなるように。